mercredi 25 mai 2011

クジラと生きる メモと少しの感想

記憶があるうちに日本語でささっと。mais seulement en japonais.



SS「クジラには家族、言語、歴史がある・・・」
→クジラに対する意識の違い

狙うクジラは6m以下、今回はハナゴンドウ。その漁のシーン。
「賢いなもう」「知恵比べ」
→クジラの賢さを示す

仕留める場所=影浦の紹介シーン
漁師「隠すのは団体対策、そして消費者のため」「牛や豚と同じ」
・今まではやってこなかった。
・l'abattageのシーンはなし。解体シーンはあり。
・年間2200頭までしかとらない。

イザコザのシーン
・撮影防ぐために公園にネット。
・漁師の一人が激怒→なだめる「挑発にのるな」
→ザ・コーヴにていわば醜態を晒してしまった。それを防ぐため。

鯨の利用方法・地域に根付く捕鯨

・一人の外国人が車の前で立ち往生。→怒るシーンを撮るため。
・10万円を見せつつ、1頭イルカを返してほしい、と。
 ・警察が20分後に到着。しかし何もできず。

1月にl'abattageシーンがネットで公開。会議が行われる。盗撮対策のため。「しっかりしないと」の声。人間だからミスは出る、と紛糾。「組合解散」の文字に「思うツボ」の意見。
漁師「"殺す"という言葉に違和感。"命を頂く"という概念。」

地元中学のシーン。授業テーマは"捕鯨と反捕鯨の考え方"。
解決法について
・お互いを尊重
・食物に対して感情は必要はない
・「かわいそう」に耳を貸す必要はない。
・捕鯨をやめるのが一番早い
・捕鯨は文化
・外圧で捕鯨を消したらダメ。簡単に消すことは怖い

漁師の子供中学から帰宅
子供「何があかんのやろ?」「町は何と言ってきた?」
母親「文化だと」「文化はダメ。もっと掘り下げないと。

2月、至近距離での動画うp→打つ手なしbyナレーター
l'abattageに関する話題へ
・影浦をシートで隠す→殺すことが恥だから→仕事が恥、という反捕鯨の論法に「これは違う」
・クジラをやめる→他を食べる→結局、他を殺す。

・骨意外は食べてきた。命を尊重している
・無駄な命を頂いていない。

軽く感想
ネット上ではSSに対する批判の声がすごいが、番組内容自体はそれほど刺激的なものではない。どうのように捕鯨の正当性を主張するべきか、これに苦しむ、あるいはそれができない漁師達の苦悩がメインではなかろうか。

個人的に一番印象的だったのは、SSのクジラ、イルカに対する考え方で、確かに日本人はそれらの動物に関する特別な感情はあまりない。そのギャップは埋める必要があるように思える。
しかし、日本人、とりわけ漁師や地元民にとっては動物である前に食物であるということも考えないといけない。他国の食べ物を否定するのであれば、説得するためにそれなりの態度と根拠が必要になってくる。

件のシーンは少々放送されたが、やはり気持ちのいいものではない。それは全ての動物に関して言えることなのだが、その方法はこのご時勢、変えていく必要があるのではないかと思う。でなければ表面的にしか物事を考えていない人にとって、捕鯨は完全なる悪にしかならない。

率直なところ、漁師達は「伝統」という盾に隠れている。いくら伝統とは言っても、時代に合わせなければならない。その努力を怠っているという印象はある。しかしそれを現場の人間任せにするのは酷ではないかと。こういったところで行政が力を発揮しなければならないのではないか。そうなれば、よりまともな議論ができると思う。

とは言っても、そうなったところで反捕鯨団体が後退することは確実といっていいほどないであろう。率直言えば、この種の問題に議論など存在しない。どちらかが妥協するまで続くであろう。

形勢は圧倒的に捕鯨派が不利だ。できうる限りの対策をしたとして(漁の方法など)、選択肢は二つ。継続が廃止か。

もはや漁師達だけでは太刀打ちできないレベルになっている。そして彼らには発信していく力もなければ、相手の攻撃を防ぐ手段もない。漁師の言葉通り耐えるしかない訳だが、そんなものが長続きするとは思えない。漁師の高齢化、鯨肉離れもあって、確実に自然消滅ということになるのであろう。

そして廃止をするにしてもSSのような団体に屈した形なる。私にはこれが廃止への最大の障害に思えてならない。皮肉にも鯨を守る団体がそれになっている。

メモおわり。